間(ま)— 音と言葉のあいだ
— 私が パトリツィア・コパチンスカヤ に見たもの、
そして私の目指すもの —
CDでしか知らなかったヴァイオリニスト、コパチンスカヤの演奏を数年前、初めて生で聴いた。
「この人も、分けていない」。
そう思った。
コパチンスカヤは、裸足で舞台に立つ。
ピアニストの真横に譜面台を置く。
弓の軌跡と顔の表情と身のこなしが渾然一体。
奇を衒っているのではない。
むしろ、奇を衒うのをやめたら、このスタイルになった。
作曲家と演奏家に分化した西洋音楽の歴史の中で、コパチンスカヤはその境界線をまたいでいる。
ヴァイオリニストとしても異彩なのに、アルノルト・シェーンベルクの声楽曲もやり、作曲も始め、バロックから現代まで時系列を渡り歩く。
専門化、精緻化という音楽史の不可逆の流れに対して、彼女はひとり、逆向きに歩いているように見えた。
でも、本当は逆向きではない。
もっと古い場所へ、音楽の原初へと向かっているのだ。
言語と旋律が分かれる前の、作る人と演じる人が同一だった場所、音楽が生活と地続きだった源泉。
そこに、コパチンスカヤは裸足で立っている。
だから、取り組んだ声楽作品も、シェーンベルクだったのだろう。
そういう意味では、僭越ながら、私も似たようなことをずっとやってきた気がする。
ピアノを弾き、音楽評を綴り、広報紙を描き、豆本を作り、詩めいたものを書きとめ、折り紙で箱を折る。言葉を出さない子どもたちと遊び、彼らの手になじむ教材を試作する。
外から見ると、それらは散漫に映るだろう。
しかし、自分の中では一本の糸が通っている。
それをあえて言葉にするなら、
「小さな器に、宇宙を込めようとする営み」とでも言おうか。
豆本のページに余白を入れるのも、ピアノの音と音のあいだの「間」を育てるのも、折り紙の一枚の紙が空間を生み出すあの神秘も、すべて同じ。ミクロの中にマクロを織り込みたい、あのつながる感覚、つながりたい衝動。
コパチンスカヤを見ながら、私はたぶん、自分の中にある同じ衝動を、再度確かめていたのだと思う。
「分化しすぎた各方面を結び直す演奏」と、その演奏会評の最後に書いた。
でも今になって思うのは、結び直すというより、分かれる前の重ね合わせの地点に還る、というほうが近いかもしれない。
もつれあうのは、何も量子だけではない。
コパチンスカヤが裸足で舞台に立つのは、地面の感触と重力と一体になりたいからだ。
私が豆本に手書きで詩を綴じ込んだのも、紙の手触りに言葉の体温を溶け込ませたいからだった。
楽譜は地図だ。でも地図は現地ではない。
コパチンスカヤは、地図を持ちながらも、地図と現地のあいだを自在に行き来する。その往復の速さと静けさが、ほかの誰でもないあの演奏の「生めかしさ」の正体なのだと思う——演奏の“艶めかしさ”の根底にある“生”の躍動。
帰る場所を知っている人は、強い。
でも、帰り道がわからなくなっている人は多い。
本当はやりたいことがあって、本来の自分の旋律がどこかに眠っているのに、時間、お金、立場、そういった経済の綱引きの中で、自分の歌をうたうことを少しずつ後回しする日々。
けれど、「いつかやる」、その「きっといつか」は、来ない。
今年こそは、と標榜しても、構造のない目標は萎れる。
コパチンスカヤが裸足で舞台に立ちながら音楽の童心へ返ろうとするように、私もまたそこを目指し、また、周りの人たちの帰り道の傍らにも立ちたいと思う。
音楽でも、言葉でも、手仕事でも、そしてもう一つの方法でも。
花が咲くところを見たい。
花だけでなく、土の中の根も、まるごと愛したい。